1959年、東京〜大阪間がわずか15分という、時速2500km幻の超音速列車の計画があったそうです。
「カラーテレビの実験放送も街頭に進出して実用化へ一歩近づきました」
テレビを持つ家庭はまだまだ少なく、街頭で見るのが当たり前の時代。
最先端のリニアモーターカーより速い、夢の列車の開発に取り組んだ男がいた。
その男とは、交通機械工学の神と呼ばれた、元名城大学学長の[故]小澤久之亟。
戦時中に旧陸軍の重爆撃機、「飛龍」を設計した、日本有数の航空エンジニアで、終戦後は国産の旅客機の設計を夢見ていた。
しかし、当時、GHQの指令により、日本では航空機の生産が全面的に禁止になった。
小澤の夢は泡と消えた。
しかし、あきらめなかった彼は、
飛行機の技術を使って、飛行機並の速度を地上で実現しようとする。
それは、音速を超える速度、時速2500kmで走る夢のような超高速列車の計画。
小澤の夢は、飛行機から列車へと変わった。
しかし、まだ新幹線すら走っていなかった当時、特急列車でも、せいぜい時速100km。
小澤の描く構想に、周りは冷ややかだった。
1959年に実験は始まった。
動力はロケットエンジン。
これを列車を見立てた滑走体模型に取り付けた。
発射された滑走体は、レールから脱線し、糸の切れた風船のように遥か彼方へ飛んでいき、この実験は失敗。
その後実験は何度か繰り返されたが、目標の音速を超えることはできなかった。
さらに、1回の実験が800万円かかっていたので、大学への批判は高まっていった。
この金額を、当時の大卒初任給(公務員)約20,000円から、現在の物価に換算すると、なんと8,000万円。
莫大な研究費が注ぎ込まれていた。
この時、大学の研究予算の大半は、小澤教授の研究に使われていたという。
しかし、小澤には「日本の技術を世界に認めさせたい」という強い信念があった。
そして、最初の実験から10年後の1969年、小澤にあるアイデアが浮かんだ。
スピードが上がるにつれ、地上では抵抗が非常に大きくなる。
そこで、真空で空気抵抗をなくすというもの。
1971年、真空パイプ内走行実験が行われた。
安全を確かめるため、カエルとカメも綿に包まれ一緒に乗せられた。
記録したスピードは、なんと時速2,135km(マッハ 1.74)、音速を越えた。
しかし、ブレーキ時の熱で、カエルとカメは焼死。列車の実験としては失敗だった。
その後、ブレーキ熱の解消など、様々な改良が行われ、
翌年の1972年、再び、超音速列車の走行実験が行われた。
すると、今回は、カエルとカメが無事に生還。
この実験成功は、新聞にも大きく取り上げられた。
しかし、桁違いの研究費用のため、大学でできる実験ではないと、その後この計画が日本で続けられることはなかったという。
そして、現在、
「リニアモーターカーを真空のトンネル内に走らせれば、音速も可能になるのではないか」
ともいわれ、
近年、海外企業がリニアと真空チューブの技術を合わせた高速列車構想を発表。
時速1200kmを目指し、走行実験を始めた。
一人の日本人が描いた「超音速列車」の夢は、半世紀の時を経て、「無謀な挑戦」から「確かな未来へ」と変わりはじめている。