なぜ、オセロは白と黒なのか?という話がありました。
これについて、オセロ開発者の長男の長谷川武さんが説明していました。
実は、オセロは日本発祥のゲーム。
開発したのは、長谷川五郎さん。
彼は、何度も生命の危機を乗り越えてオセロを完成させた。
彼の人生をかけた 一大プロジェクトだった。
太平洋戦争が終わった昭和20年。
焼け野原となった水戸に、一人の青年がいた。
長谷川五郎、当時、中学1年生。
五郎には夢中なものがあった。
終戦直後の日本の学校に、おもちゃや遊具などはなく、唯一の遊び道具が囲碁の碁石だった。
五郎は記憶力が抜群で、「記憶の長谷川」と呼ばれるほどだった。
そのために、囲碁は得意で強かった。
だが、友達と遊ぶにはルールが難しかった。
碁石で、もっとシンプルに遊ぶ方法はないか。
そこで、ひらめいた。
「はさんだらどうか」
例えば、黒ではさんだら、間の白を取って黒に置きなおす。
10分の休み時間で決着がつく単純明快なルール。
しかし、いちいち碁石を取り替えるのが面倒だった。
碁石の代わりになるものはないか、またひらめいた。
ボール紙を丸く切り抜いて、
黒い紙を貼り、白と黒にする。
はさんだら、ひっくり返す。
たちまち、学校中の話題になった。
だが、その後、五郎は、栄養失調で倒れて、その影響で大病になり、休学して療養生活に入った。
運が悪ければ、亡くなっていた可能性は十分あった。
終戦直後の貧しい時代、療養は実に6年に及んだ。
いつしか、あのゲームは忘れ去られていった。
何とか、一命を取り留めた五郎は、茨城大学に入学。
ここから「記憶の長谷川」が本領を発揮した。
大学を首席で卒業し、大手製薬会社に入社。
生涯の伴侶 秀子と結婚、長女 順子が生まれ、家族も増えた。
仕事以外にも、司法試験をうけて弁護士を目指し、キャリアップできたらと、
遅れた6年を取り戻そうと必死だった。
しかし、再び不幸が襲う。
それは「交通事故」。
車を運転してたら、横から車をぶつけられ、命が助かったのが奇跡といわれる全身打撲。
その影響で後遺症が残り、頭痛がして弁護士の勉強も集中できなくなり、あきらめた。
「記憶の長谷川」と呼ばれた能力は、すっかり影を潜め、生きる希望を失った。
ある日、五郎は製薬会社の営業で病院を訪れた。
患者さんから「やはり、時間に余裕があるので、ひまつぶしになるものは何かないですか?」と言われた。
その時、「記憶の長谷川」の記憶の扉が開かれた。
中学の時、時間を忘れて熱中したあのゲーム。
しかし、ボール紙をいちいち切り抜くのは面倒。
何か、代わりになるものはないか。
五郎は、栄養失調になってから、栄養をつけるため、牛乳を飲むのが習慣だった。
「これだ!」
牛乳ビンのフタに黒い紙を貼った。
そのゲームを病院に持ち込んだところ、患者や看護師、医師にウケた。
みんな、このゲームを欲しがった。
100台分以上ゲームを作って配った。
フタのため、家族で牛乳を飲みまくった。
フタを洗って乾かした妻の秀子。
作っても作っても、追いつかなかった。
そして、病院の先生から「非常におもしろいし、華があってリハビリにも役立つ、これは売れるよ!」と言われ、
五郎は自ら、手作りのゲームをおもちゃメーカーに持ち込んだ。
応対したのは、「ダッコちゃん人形」をヒットさせた大手おもちゃメーカーの佃光雄社長。
佃社長「売れる確証はるのか?」
五郎「売れますよ、そのためにも大会開きましょう」
と勝負に出た。
大会の会場は、帝国ホテルを五郎が自腹で借りた。
全財産を使い切った。
運命をかけたオセロ大会。
昭和48年4月7日に行われた第1回全日本オセロ選手権は、大盛況だった。
会社の仲間や営業先の病院の人、うわさがうわさを呼び、100人以上が詰めかけた。
新聞にも取り上げられた。
大会の手応えをもって、おもちゃメーカーも本格販売の体制に入った。
戦後の青空教室から、実に28年、
昭和48年4月25日、「オセロ」商品化 発売決定。
日本でも、世界でもバカ売れした。
それは、まるでオセロのような大逆転劇だった。
「ゲームを作る目的は?」と聞かれた時の長谷川五郎さんの言葉が残っている。
「みんなで楽しんでいただける、これが目的です。」
ちなみに・・・、
「オセロ」の名前の由来は、シェークスピアの4大悲劇のひとつ「オセロ」から。
名付け親は、長谷川五郎さんのお父さんで、イギリス文学者の長谷川四郎さん。
オセロの石のサイズは、現在も当時の牛乳ビンのフタと同じ、34.5mmが公式の規格となっている。