家を借りる時に払う「敷金」と「礼金」。
「敷金」は、大家さんに預けるお金なので、返ってくることもある。
しかし、「礼金」は、大家さんにあげるお金。
なぜ、この「礼金」を払わないといけないのか?
これについて、国内唯一の不動産学部で、不動産のルールを研究している、中城康彦 先生(明海大学 不動産学部 教授)が説明していました。
「礼金」は「ありがとう」の意味を込めて大家さんに支払う謝礼金。
その始まりは、江戸時代と考えられる。
1603年に始まり、260年ほど続いた江戸時代。
そこで起きた問題のひとつが、爆発的な人口の増加。
江戸の町の人口は、初期には約15万人。
それが、1700年代に入ると、100万人を超え、当時のヨーロッパ最大の都市、ロンドンの86万人を大きく上回る世界最大級の都市になった。
この人口の激増によって、住宅が足りなくなるという問題が起きた。
その問題に対応するために生まれたのが、「長屋」。
家を壁1枚で6畳ほどに仕切り、
一間に家族4〜5人がひしめき合って暮らすというものだった。
狭い部屋が隙間なく並んだ長屋をつくることで、爆発的な人口増加に対応した。
長屋の土地は、幕府のもの。
幕府の土地に建てられた長屋を大家が町人に貸して暮らしていた。
(※一部の地域では土地の私有化が認められていたが)
これが、この国の賃貸制度の始まり。
では、礼金は、どう関係しているのか?
住む場所が足りない中、家を貸してくれたお礼として、借り主が「家守(やもり)」つまり、大家にお金を払い始めたこと。
これが、礼金の始まり。
「家守」とは、現在で言うと、管理人のようなものだが、結構、大変な仕事だったという。
「家賃の集金」「争いごとの仲裁」「職のあっせん」「住人の身元保証」「火事の対応」「結婚相手探し」など、
住人のありとあらゆるサポートをしていた。
なので、江戸時代の礼金は「貸してくれてありがとう、さらに、これから面倒を見ていただきます」という意味を込めて払っていたお金。
いくらぐらい払っていたのかk?
一般的的な長屋の家賃が、月約600文(約9000円)の3分の1程度を入居時に”礼金”として払う。
その後、明治時代になると、政府が土地の改革を行い、家守を置く賃貸システムは廃止になったが、
代わって、賃貸の仲介業者が生まれ、人々は引き続き、長屋や借家などで暮らしていた。
明治時代には、支払う相手がいなくなったので、礼金もなくなるはずだったが、慣習としては緩やかに残っていったと考えられる。
しかし、大正時代に、「関東大震災」起き、再び、住宅不足が起きて、改めて礼金が必要になった。
大正12年(1923年)に起きた関東大震災、東京は、町の4割以上が焼けてしまった。
家が足りなくなったので、政府主導で震災復興目的の公営住宅や、同潤会アパートなども建てられたが、
それだけでは、追いつかないほど。
やはり、住む場所が足りない中では、お礼としてお金を払わないと、家を借りることができなかった。
こうして、関東大震災から立ち直るのだが、昭和に入って、太平洋戦争が起き、再び住宅不足が発生。
1945年まで続いた太平洋戦争。
空襲を受け東京の町の3割ほどが焼失。
3度目の住宅不足に陥る。
つまり、東京では事あるごとに住宅不足が起こり、その中で家を貸してくれる大家さんに対して、お礼を払うという慣習が残り続けたと考えられる。
ちなみに、1960年代の全国紙の、賃貸住宅の入居者募集の欄を見てみると、
例えば、渋谷のある物件は家賃2万5000円のところ、礼金は家賃3か月分の7万5000円をとっているという計算。
比べてみると、物件によって、礼金の額はまちまちだったということが分かる。
現在の日本では、部屋を借りたい人に対して、住宅が余るという現状。
空き室を一刻も早く埋めるため、礼金をゼロにしたり、「フリーレント」という家賃を何か月分か無料にするという賃貸物件も増えてきている。