紙の大きさといえば、A4やB5などがある。
でも、なぜ、AとBの2種類あるのか?
これについて、紙の歴史などを研究している 西村博之さん(紙の博物館 学芸部長)が説明していました。
日本で西洋式の紙を作る本格的な工場ができたのは、明治8年。
2024年から1万円札に印刷される渋沢栄一が作った。
当時、日本には、植物【楮(こうぞ)、三椏(みつまた)など】の皮の繊維から作られた和紙があったが、
このころの西洋紙の多くは、ボロ布の繊維で作られていた。
しかし、余った布では量に限りがある。
そこで、明治22年、新しい海外技術を取り入れ、大量生産が可能な、木の繊維を原料とする、
現在の紙を作る工場が日本にも誕生した。
木の繊維で作った、当時の紙には、様々な大きさがあったが、
主に使われていたのは、「菊判」と「四六判」。
「菊判」は、雑誌などに使われていた大きさで、「四六判」は、小説などに使われていた。
しかし、当時の紙には、ある問題があった。
大きさが明確に決まっていなかった。
例えば、全て「菊判」で作られた本を重ねると・・・、
大きさはバラバラ。
「四六判」を重ねても・・・、
大きさはバラバラ。
当時は、紙だけでなく、工業製品【ネジ・ビール瓶・生地・鉛筆など】にバラつきがあった。
そこで、国が工業製品の規格を統一することになった。
大きさがバラバラだった「菊判」と「四六判」の紙を1つの大きさに統一することになった。
そこで、当時、紙の規格統一を担っていた、大蔵省印刷局の矢野道也は、
海外の紙の寸法について書かれている書籍を集め、「菊判」と「四六判」に近い大きさを探した。
そして、見つけたのが、ドイツで使われていた「A判」で、「菊判」とほぼ同じ大きさだった。
大きさ以外にもあるメリットがあった。
ドイツのA判は、
何回半分にカットしても、縦と横の比率【1:ルート2】が変わらないのでムダがない。
私たちがよく使うA4サイズは、A判で一番大きいA0をきっちり16等分すれば作れてしまう。
サイズが日本の菊判とほぼ一致していて、半分にしても比率が変わらないという、この2つが決め手となり、ドイツのA判が採用された。
一方、「四六判」はというと、「A5」と「A6」の間の大きさで、A判が合わなかった。
いっそのこと一回り大きい「A5」にしてしまえばいいとも思えるが、
「四六判」は、小説など持ち運びやすい大きさだったので、消費者のことを第一に考えて、庶民が慣れ親しんだ大きさを変えるのは論外だった。
ちょうどいい大きさがないのであれば、作ってしまえと、「B判」という日本独自の規格が作られた。
こちらも、A判と同じく半分にしても比率は変わらないようになっている。
「菊判」は、「A5」。
「四六判」は、「B6」。
それぞれのサイズが使われるようになった。