足に鉄球つけられたことある日本人まだギリいる説:水曜日のダウンタウン【2017/02/08】

そもそも足に鉄球を付けるという行為はいつの時代まで行われていたものなのか?

刑務所の歴史に詳しい、歴史学者の桑原真人(くわばらまさと)さんに聞いてみた。

Q.囚人が足に鉄球を付けてるのがあると思うんですけど、あれはそもそも一体何なんですか?

桑原さん「普通『鉄丸』と呼ばれるものなんですね、砲丸のようなものなんですけど、重さが1個大体3.75kgありましてね」

鉄球の正式名称は「鉄丸(てつがん)」。重さが1個約4kg。

主に脱獄や逃走を図ろうとした囚人への懲罰具。

なぜ、鎖を付けるなど、もっと動きを制限するものではなく、

わずか4kgほどの球体という動きのとれる懲罰具を使用していたのか?

桑原さん「完全に動作を制限すると、獄内生活に支障をきたすからじゃないでしょうかね。道路開削とか炭坑の労働者とか利用するわけですよ。」

当時の囚人たちに課せられていたのは、屋外での肉体労働。

そこで、動けるが素早くは逃げられないという状態が最も都合がよく、それには4kgほどの鉄球が最適だったようだ。

そんな鉄丸の使用時期は、

桑原さん「明治10年代の北海道にはですね、『集治監』と呼ばれる重い刑期の囚人を収容する施設が3か所設けられましてね、その集治監のルールを破った人に対して行われる刑罰の一種なんです。」

明治維新後、政治犯や凶悪犯を全国から集めて隔離する目的で、西洋の刑務所を参考に、より近代的な囚人の収容施設を設置。

それが刑務所の最高機関、「集治監」。

日本一過酷な刑務所として有名な「網走監獄」も、当時建設された集治監の一つで、北海道にその網走を含め、宮城、東京、福岡と合わせて、全国8か所に設置されている。

桑原さん「江戸時代の牢屋というのは閉じ込めるだけでですね、罪をあがなうという意識だったんだけど、フランスやイギリスなんかがアフリカやオーストラリアを囚人を使って開拓したようにですね、その発想をもとに作られたのが集治監だったわけです。まぁ、囚人にとっては迷惑な話でしょうけどね。」

だがその後、鉄丸が使われていた集治監も刑務所へと名称を変え、

(明治28年)十勝分監 → (大正11年)十勝刑務所
(明治23年)網走分監 → (大正11年)網走刑務所

それぞれ監内での懲罰も変わっていったため、鉄丸がいつまで使われていたのか、その正確な時期は不明だという。

Q.鉄丸をつけた事がある日本人ってまだいると思いますか?

桑原さん「受けた人は明治時代が中心でしょうからね、今、生存している可能性は非常に低いと思いますけども。」

北海道の集治監のあった場所の近くに住んでいる老人に、鉄丸のことを聞いてみると、見たことがあるという人が2人いた。

当時は編笠を被せられ護送されていた。老人たちの証言により、大正時代にも鉄丸を使用していたことがわかった。

三池集治監のあった福岡県大牟田市、こちらの囚人たちも「三池炭鉱」での労働力となっていたため鉄丸の使用頻度も高かった。

そんな中、ビルマ(現ミャンマー)で捕虜となった外国人が鉄丸をつけられていたという証言があった。同様に上海でも。

ということは、外国で捕虜になった日本人も鉄丸をつけられた可能性があるのではないか。

捕虜経験がある日本人にも話を伺ってみることに。

旧ソビエト連邦のハラゴンに3年間捕虜として抑留されていたというご老人。脱走しても氷点下50度の地では凍死してしまうため鉄丸は必要なかったし、見たことはなかったという。

同じくソビエトのタシュケントに抑留されていたご老人も鉄丸は見たことはないという。

ここで、捕虜が鉄丸を付けていたという線は断念。

再び北海道で聞き込みをしていると、なんと網走刑務所の元刑務官をしていたというご老人を発見!しかも囚人に鉄丸を付けたことがあるという。

元刑務官「どれだけのタイムで歩けるか、走れるかという事を職員は覚えておかなければいけない。入浴なんかの時に体操なんかあるんですよ。そういう時は外すんですよ」

元刑務官の方は、22歳(昭和18年)の時から網走に勤務。

この発言が事実なら、昭和初期にはまだ鉄丸は使われており、付けられたことのある元囚人も生きている可能性も高い。

検証結果

足に鉄球をつけられた人は見つからなかったが、つけた人は見つかった。