今では当たり前のように1日3食食べている。
しかし、実は日本の一般庶民が3食食べるようになったのは、江戸時代。
江戸時代以前の人々は、昼食をとらず、朝食と夕食の1日2食の生活でした。
しかし、江戸時代中期になると、庶民の間にあるものが普及した。
それが、「照明用の菜種油」。
今では食用として、よく使用される菜種油だが、古くから照明の燃料として使われていた。
しかし、江戸中期以前の菜種油は非常に高価で、一般庶民には手が届くものではなかった。
代わりに、庶民が照明の燃料にしていたのが、「イワシの油」。
しかし、このイワシの油は、燃える時に強烈な臭いを発するため、結果、一般庶民が照明を使うことはあまりなかった。
そして、1700年頃、菜種油を大量に作る技術が開発されて、菜種油の値段が下がった。
こうして、庶民も菜種油を買えるようになり、明かりをつけて、夜も活動できるようになった。
その結果、起きている時間が長くなり、1日2食ではおなかがすくようになったため、
朝食と夕食の間に昼食をとる1日3食の習慣が広まった。
1日2食の時代
1日2食の時代(室町時代初期)では、夜明け前の3〜4時に起床。
起床後は朝食をとらず、日の出とともに仕事開始。
そして、午前10時、仕事完了。
今とは異なり、労働は早朝から昼前までの5〜6時間ほどでした。
起きてから7時間以上経過した午前11時にようやく朝食。
食事は、蒸した玄米・すまし汁・焼き魚などの「一汁一菜」が基本。
朝食後は、仕事道具の手入れなどを行い、家でゆっくりと過ごした。
そして、午後4時ごろに夕食。
夕食を食べ終えた頃には日も暮れ始め、照明をつけたい時はイワシの油を使っていたが、臭いので夜に明かりをつけることもなく、日没の夕方6時ごろには就寝するという生活だった。
こうして、1日2食の時代は、夜の活動時間が短く睡眠時間が長いという生活だった。
1日3食の時代
1日3食の時代(江戸時代中期)では、2食だった時代よりも2時間遅く、夜明けとともに起床。
仕事に行く前に朝食をとる。
献立は、みそ汁・漬物・きんぴらごぼうなどといった「一汁二菜」が基本。
主食は玄米ではなく山盛りの白米。
江戸時代には、精米技術の発達などにより江戸の庶民も白米を食べられるようになった。
朝7時、朝食を食べたら仕事開始。
そして、3時間後の午前10時、江戸の人たちは昼食の前に、おやつ感覚で、そばやお寿司などの軽食をとるのが一般的だった。
街には軽食の屋台がたくさんあったという。
再び働き始めたのもつかの間、2時間後の午前12時にはもう昼食。
メインのおかずには刺し身などを食べるなど1日の中で最も豪華な食事。
そして、ここでも山盛りの白米。
江戸時代には1人1日5合も白米を食べていたという。
白米は当時、年貢として納められていたこともあり、富と権力の象徴とされていた。
そのため、喜んで白米ばかり食べていた江戸の人々は、本来おかずなどからとるべきビタミンが不足し、「脚気(かっけ)」になる人が続出したという。
昼食を食べた後、再び仕事へ。
すると、またもや2度目のおやつタイム。
つまり、お昼前と夕食前の2回、軽食をとっていたということ。
当時、あらゆる産業の中心であった江戸では、多くの人が長い時間働いており、仕事の合間に食事をとるようになった。
そのため、1回の食事に十分な時間がとれない。
代わりに食事の回数を増やした。
おやつタイム後、1時間ほど仕事、午後4時に仕事終了。
そして、夜7時、菜種油を使った行灯(あんどん)に火をともし、夕食。
夕食は、残ったごはんをお茶漬けにして、食べるのが一般的だった。
夕食後は、行灯の明かりの下、本を読んだり、お酒を飲んだりして過ごし、就寝するのは、現代と同じように、夜の11時ごろ。
菜種油の普及により、夜の活動時間が5時間も増え、現代のような生活習慣へと近づいていった。

- 作者:奥田 昌子
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