歌舞伎で、名前を受け継ぐ「襲名」。
これは、江戸時代のある時期までは、常識ではなかった。
江戸歌舞伎の看板役者、初代、市川團十郎(1660〜1704年)。
悪人を相手に大立ち回りを演じる「荒事」を生み出し、
隈取(くまどり)と呼ばれる独特の化粧も考案。
評判が記された史料には、
「おそらく この人ほど 出世なさるる芸者 異国本朝に 又と有るまじ(團十郎ほどの看板役者は外国にも日本にも二度と現れない)」
とあるほど、当時の日本を代表するスーパースターだった。
そんな團十郎に思いも寄らぬ悲劇が襲いかかる。
なんと、1704年、役者仲間に刺殺されてしまった。
突然の悲報は江戸中を駆け巡り、人々は悲しみに暮れた。
それだけではない。
看板役者を失ったことは、座元と呼ばれる興行主にとっても、経営を揺るがす大打撃だった。
歌舞伎界を襲った人気凋落を招きかねない緊急事態。
この大ピンチを救ったのが、「名前を継ぐ」こと。
当時、團十郎には17歳の九蔵(くぞう)という息子がいた。
興行主たちは、この九蔵に白羽の矢を立てる。
しかし、九蔵の名前を 一から売り出すのは時間も金もかかる。
それより、絶大な人気を誇る團十郎の名前を継がせた方がいいと考えた。
名前を受け継ぐことは興行主だけでなく、役者、そして観客にもメリットがあった。
役者にとっては自覚につながり、それまで観客に馴染みのあった名前を襲名していくことで、最初から人気がついていく部分もある。
一方、観客にとってみると父親の面影を見ることができ、父親との違いを見ることもできる。新しく襲名した役者独自の部分を見ることもできる。