なぜ、かき氷の旗は同じデザインなのか?という話がありました。
全国のかき氷屋さんを調べてみると、
北海道から沖縄まで、かき氷を販売する店には「氷旗」が掲げられている。
しかし、この旗「かき氷」ではなく、「氷」としか書かれていない。
なぜ、かき氷屋さんに氷旗が掲げられるのか?
氷の歴史を日本雪氷学会の竹井巖さんが説明していました。
平安時代に清少納言が書いた「枕草子」には、「(現代訳)削った氷に甘味料をかけ新しい金属製のわんに入れたものはとても上品である」と書かれている。
清少納言といえば、当時の上流階級。そんな彼女さえも、ありがたがって食べていることから、いかに氷が貴重だったかということがうかがえる。
江戸時代に入ると徳川家康は、夏場に雪や氷を富士山から運ばせていた。更に、加賀藩 前田家は、将軍家に氷を献上するため、雪を夏まで貯蔵し江戸まで運んでいたという。
貴重な氷はお氷様と呼ばれ、江戸の庶民には触れることもできなかった。
暑い季節に冷気を感じることができる氷は、限られた人だけのぜいたく品。
その氷の使い方に変化が起きたのは、江戸時代末期。
当時、横浜に住んでいた外国人たちが、氷を求め始めた。
その目的は、食料品の保存や、外国人医師が解熱や やけど治療に使うためだったと言われている。
しかし、当時の日本には、庶民が気軽に使える氷はない。そこで、氷をアメリカから輸入した。
1806年ごろ、アメリカのボストンでは、ウェナム湖の氷を切り出し世界中に輸出するビジネスがあった。
船での輸送中に氷が溶けないよう、ブロックの氷の周りに木材やおがくずを敷き詰めていた。
この保冷技術のおかげで、積み込んだ氷の約55%を運ぶことができた。
ボストンから日本までの航路は、約1万5000km。輸送機関は、なんと約6か月。
ビールケースほどの氷が3〜5両(現在の30万円以上)したといわれている。
氷は非常に高価なもの。庶民がかき氷にするなどできなかった。かき氷ほど手軽に氷が使えるようになったのは、明治時代に入ってからと言われている。
そのキッカケとなったのが、中川嘉兵衛(1817〜1897)。
外国人が高価な輸入氷を使っていると知った中川は、安い氷を普及させるプロジェクトを開始。
山梨県の富士山麓から氷の採掘をスタート。よりよい場所を求め日本列島を北上。しかし、いずれも成功には至らず・・・。
いちばんの問題は輸送手段。氷の輸送に、陸路や航路を整備するには時間・費用がかかり採算が取れない。
そこで、中川が目をつけたのは、北海道・函館。
当時の函館港には、大型蒸気船の定期便があり、それを使えば、輸送費用を抑えて採算が取れる。
最後にたどりついたのが、函館港の防衛のために江戸幕府が作った城郭、「五稜郭」。
当時、五稜郭の外堀は、清流・亀田川から水を引き入れていたため、気泡など不純物の少ない透明な氷ができ、更に北海道の気候のおかげで、十分な厚みのある氷が大量に採れたという。
明治4年、670tの氷を切り出し、「函館氷」として商品化。安い函館氷は日本中に行き渡り、庶民もかき氷が食べられるようになった。
ところが、中川の成功を見て、”氷の販売はもうかる”とわかると、全国的にマネする者が続出した。不衛生な氷を売る不届き者も出てきた。
当時、政府のトップだった伊藤博文は、新聞で、不衛生な氷の製造販売を取り締まると発表。政府は、衛生検査を導入し、検査に合格した氷業者に配られたのが、あの「氷」と書かれた旗、許可証だった。
当時の旗をよく見ると、「氷」の下には産地(企業名)が書かれ、上には「官許」の文字が。これこそが政府が営業を許可したとの証し。
そして、日本中のかき氷屋さんは、仕入れ先の許可証を掲げ、うちの氷は安全だという目印にした。
その名残が、今も全国のかき氷屋さんに残っている。
ちなみに、氷旗のデザイン。
「波」は、函館氷が蒸気船を使って海を越えて運んだことから、この波をイメージしたものと言われている。
「鳥」は、日本の伝統模様の波千鳥。清涼感を取り入れるためにデザインしたと言われている。