名刺はなぜ「名を刺す」?という話:チコちゃんに叱られる!【2021/04/09】

名刺はなぜ「名を刺す」?という話がありました。

これについて、古代中国史を研究している 関尾史郎 先生(新潟大学 名誉教授)が説明していました。

日本国内で使用されている名刺は、1日約3000枚、

年間の消費量は100億枚程度といわれている。

名刺の歴史は意外と古く、2000年以上前に中国で誕生。

その頃の呼び名が「刺(し)」だった。

古代中国の文献を書き写したものには、「上司に腹を立てて名刺を投げ捨てて職を去った」と書かれており、名刺を表す文字は「刺」と表現されている。

その頃の刺は紙ではなく、「木の札」だった。

3世紀頃の中国のお墓から見つかった「」。

木の板には、名前本籍地の他に、挨拶文が書かれている。

この木の名刺を何枚か持ち歩いて、人と会った時に渡していた。

実は、古代の中国では「刺」をいう漢字には、「書く」や「書かれたもの」という意味もあった。

3世紀頃の中国の文献では、「刺す」という字が「書く」という意味で使われている。

そのため、「名前を書いたもの」という意味で、「名刺」と言うようになった。

そして、紙を作る技術とともに、名刺は紙へと変化し、名刺の文化は、江戸時代には日本に伝わっていた。

最初の頃は、訪問先が不在の際に、和紙に墨で名前を書いたものを置いてくるところから始まった。

こちらが、江戸時代後期の名刺。

名前の上には・・・、

どんな人か忘れないように、相手の職業などが書かれている。

例えば、水心子正秀(すいしんしまさひで)さんは、「刀鍛冶の達人」と書かれている。

そして、名刺交換が盛んに行われるようになったのは、幕末になってから。

ペリーの来航による開国から、外交使節団が名刺を持ち、各国要人らと交換する機会が増え、名刺交換の文化が盛んになった。

幕末の旗本で遣欧使節団の一員として、フランスへ行った池田長発の名刺は、外国人向けに外国語と日本語の両方が書かれ、更に家紋が記されている。

同じく、遣欧使節団の一員だった京極高朗は、色とりどりの色彩名刺を使用していた。

そして、明治時代になると、鹿鳴館のような国賓や外国の外交官を接待する社交場でも必須アイテムとなり、日本に現在の名刺交換の文化が定着していった。