夏のレジャーの定番といえば、海水浴。
日本各地で、夏になったら海水浴に行く。
でも、なぜ夏に海水浴に行くのか?プールだけではダメなのか?
これについて、海水浴の歴史に詳しい 畔柳昭雄先生(日本大学理工学部海洋建築工学科 非常勤講師)が説明していました。
夏に海水浴に行く習慣を日本に根付かせたのは、幕末から明治時代にかけて活躍した医師、
松本順(松本良順)【1832-1907】が頑張ったから。
東洋医学が主流だった幕末、明治に西洋医学を学び広めた医師。
将軍徳川家の主治医を務め、明治維新後は、初代陸軍軍医総監を任された。
松本順は軍医だったが、人々が病気にならないよう尽力をした。
明治時代、西洋医学はすでに入ってきていたものの、薬の値段が高く一般の人はなかなか買うことができなかった。
そのため、まず、「病気にならないこと」を第一に考えていた。
病気を予防するためにすすめたのは、「牛乳は体にいい」「力をつけるなら肉のたんぱく質をとる」など、今に伝わるものがたくさん。
更に、特にすすめた健康法が「海水浴」だった。
海水浴は、18世紀ころ、ヨーロッパでは知られていた健康法。
(↑イギリスの海水浴場)
海に入ると、波が体に打ちつける。
それが全身に刺激を与え、血の巡りをよくし、海水に含まれるミネラルなどの栄養分が、
皮膚病や貧血の改善などに効果があるといわれている。
日本でも、海水浴をすすめる医師たちが現れる中、松本順は、更に日本中に広めるため、
海水浴に適した海岸を探していた。
明治17年の神奈川県の大磯海岸。
波の強さがほどよく、北側に山があり、冷たい風が吹き込まない、海水の塩分濃度が高いなど、
大磯の海は海水浴に適した理想の海だった。
大磯に海水浴場をつくろうと思った松本順は、泊まっていた宿(旅館 百足屋)の主人に話を持ちかける。
宿の主人らの協力を得て、海水浴で大磯を盛り上げようと町の人たちに働きかけた。
反対意見もあったが、熱心に説得を重ねることで、最終的には町ぐるみで協力してくれた。
こうして、明治18年夏、大磯海水浴場を開設。
しかし、人はそれほど来なかった。
もともと、大磯に行くには横浜から人力車を使う方法しかなく、交通の便が悪かった。
多くの人々に知ってもらおうと、海水浴の方法をわかりやすく説明した本を書き上げ、
明治19年「海水浴法概説」を出版。
ビラを作って宣伝もしたが、人は来ず。
そんな悩む松本順の目に飛び込んできたのは、
明治19年、東京と京都を結ぶ新しい鉄道を作るにあたり、計画されていた中山道のルートをやめ、
東海道ルートへと変更になった というニュース。
このことを知った松本順は、大磯に駅を造ってもらうよう、時の内閣総理大臣伊藤博文に直談判した。
当初計画されていた駅は、保土ヶ谷、戸塚、藤沢、平塚、国府津。
大磯に駅を作る予定はなかった。
そこで、伊藤博文に、大磯に別荘を建てることをすすめた。
明治20年7月11日、大磯駅 開業。
駅ができたことで、誰もが来やすい場所となり、海水浴場にもたくさんの人が集まった。
更に、海水浴場の近くに、療養施設を兼ね備えた旅館「祷龍館(とうりゅうかん)」を建て、
旅館がにぎわっている様子を三代目歌川国貞に頼んで浮世絵にした。
浮世絵を使って、大磯の海水浴場には、こんなにも大勢の人が集まる流行スポットだと触れ回った。
人を呼べるだけ呼ぼうと、プロモーションに力を入れる。
歌舞伎界にも知り合いの多かった松本順は、大磯と海水浴を題材にした恋物語を有名脚本家に書いてもらい、人気役者に演じてもらった。
更に、物語にちなんだまんじゅうを大磯で売り出し、そのまんじゅうを持って政財界の要人たちに、別荘を造らないかと営業。
大隈重信、山県有朋、原敬など、総理大臣を務めた8人もの大物政治家が、次々と別荘を造り、
大磯は、「明治政界の奥座敷」と呼ばれるまでになった。
このことがきっかけで大磯は、高級リゾート地としても知られ、流行のスポットとしてたくさんの人でにぎわった。
そして、海水浴や大磯が世間で評判になったことで、全国各地でこぞって海水浴場がつくられた。
国民の健康を願った1人の医師が、健康法としての海水浴を、誰もが楽しめる夏のレジャーとして定着させた。
松本順が海水浴場をつくったのと同じころ、他にも西洋医学を学んだ医師たちが、健康のために海につかる海岸を兵庫や愛知、三重に開設したが、
その中で「海水浴場」という名称をつけたのは、松本順が最初だった。