なぜ羽田に空港がある?:チコちゃんに叱られる!【2023/02/24】

なぜ羽田に空港がある?という話がありました。


これについて、日本の飛行機の歴史に詳しい廣瀬毅さん(三重県・四日市立博物館の副館長)が説明していました。

羽田に空港がつくられる道を切り開いたのは、三重・四日市出身の玉井兄弟。

今から、約120年前の明治30年ごろ。

三重県四日市市の町工場、「玉井商店」には元気な男の兄弟がいた。

兄:玉井清太郎、弟:玉井藤一郎。

子どもの頃に、竹とんぼを飛ばして、空を舞う様子を見て、空を飛ぶことへの興味を深めたという。

兄弟が小学校に通っていた明治36年。

アメリカのライト兄弟が、世界初の有人動力飛行に成功した。

「俺たちも絶対に空を飛ぶぞ!」と玉井兄弟は誓い合った。

日本では、ライト兄弟から遅れること7年(明治43年)。

軍の演習で、2人の大尉が初めて飛行に成功した。

しかし、この時は、ドイツやフランスで飛んだ機体を日本に持ち込んでいるので、

まだ、国産の飛行機はなかった。

「俺たちが国産初の飛行機をつくろう」

そう考えた兄の清太郎は、同じ年(明治43年)に、

原寸大の飛行機模型を自分たちが通っていた浜田小学校の校庭で組み立てた。

しかし、これはエンジンがついていない模型で、飛べなかった。

清太郎は大枚をはたいて、エンジンを購入した。

何度も飛行機を試作し、苦節6年(大正5年)、ついに理想の飛行機が完成した。

その飛行機で地元・四日市の空を飛ぶと、たくさんの人を集めて公開飛行を行おうとする。

大正5年8月5日、大観衆を前にエンジンをかけたが、海上を走っていくだけで終わってしまった。

海面から飛び立つ時に必要な「水切りステップ」という装置がついていなかった。

また飛べなかった時に、兄弟の前に1人の男が現れた。

宇都宮の呉服店の息子、相羽有(あいばたもつ)。

彼もまた大空に憧れていたが、目が悪く、近視だったということで、空を飛ぶ夢を諦めて、

航空雑誌「飛行界」の記者になった。

その相羽と玉井兄弟の運命の出会い。

3人はぶっ飛んだ計画を立てた。

新しい飛行機乗りを養成する学校をつくろうと考えた。

まともに飛んだことがなかったにも関わらず、飛行機の学校をつくろうとした。

「自分たちの飛行機で大空を飛ぼう!、その技術を後輩たちに伝えていこう!」

夢を乗せた飛行学校、その開校の地に選ばれたのが、現在の羽田空港の場所である。

陸上では、飛行機を飛ばせるだけの滑走路という長い場所がないが、

海岸であれば干潮時に干潟が現れる。

学校の名は「日本飛行学校」。

清太郎が教官を務めた。

飛行機の製造から操縦の腕も磨いた。

大正5年10月5日。

羽田につくった日本飛行学校でついに、清太郎が飛んだ。

飛行機の力を東京の人にアピールしようと、「帝都訪問飛行」という計画を立てる。

大正6年5月20日、清太郎は羽田を離陸、東京の空を2回飛んだ。

しかし、3回目の飛行で、着陸前に翼が折れて上空から墜落。

清太郎(24)と乗っていたカメラマンは即死した。

さらに、その年の大正6年10月、東京湾台風が直撃。

暴風雨と高潮で、日本飛行学校は、飛行機を流失。

羽田から飛行機が消えた。

それから6年後(大正12年9月)、関東大震災。

東京の町と鉄道が大きな被害を受けると、飛行機に注目が集まった。

陸上交通から航空輸送という視点が生まれた。

そして、民間専用の飛行場をつくろうとなった。

空港建設を推し進めたのは、元軍人の政治家、長岡外史。

飛行機の翼のようなヒゲを生やしている。

都心に近い民間専用の空港が必要だが、そんな都合の良い場所があるはずは・・・、いや、あった。

日本飛行学校の校舎があった北側を埋め立てて、最初の滑走路がつくられた。

日本飛行学校が羽田に飛行場をつくるキッカケとなった。

昭和6年、日本初の民間専用空港「東京飛行場」、後の「羽田空港」が完成した。

記念すべき最初の便は、中国・大連行き。

しかし、乗客はゼロ。

乗っていたのは、大連に住む日本人に秋の気分を味わってもらおうと運ばれた「6000匹の松虫、鈴虫」だけだった。

大空に人生をささげた相羽有は、その後、航空会社を設立し、日本の空の発展に尽力した。

一方、弟の玉井藤一郎は、エンジンを製造する仕事に就き、羽田空港がある大田区に住み続けた。