なぜ畳の一畳は、あの大きさなのか?:チコちゃんに叱られる!【2023/08/25】

畳の一畳は、なぜあの大きさなのか?という話がありました。


これについて、河田克博 先生(名古屋工業大学 名誉教授)が説明していました。

畳一畳の大きさは、縦が約176cm、横が約88cmというざっくりとした目安がある。

一見、大きさが統一されているように見えるが、

実は、地域によって大きさが違う。

例えば、先ほどの大きさの畳(縦が約176cm、横が約88cm)は、

ほぼ全国で使われている「江戸間」と呼ばれている畳。

一方、関西や西日本では、江戸間よりも大きい、縦が191cm、横が95cmの「京間」と呼ばれる畳もある。

同じ8畳でも、江戸間よりも京間の方が広いということになる。

8畳の京間の畳の上に、

8畳の江戸間を敷いてみると、約28cmの隙間ができた。

なぜ、同じ1畳でも、大きさが違うのか?

江戸間と呼ばれている畳は、徳川家康が決めたといわれている。

一方、京間は、織田信長が深く関係している。

現存する最古の畳は、聖武天皇が使用した「御床畳(ごしょうのたたみ)」。

これは、非常に薄っぺらな畳だった。

また、平安時代では2mを超えるサイズの畳もあり、現在の畳とは全く異なる大きさの畳だった。

室町時代に入ってから、少しずつ畳の大きさが統一。

その畳の基準となったのが、1間(いっけん)の長さ。

1間とは、家を支える柱と柱の間の距離。

室町時代の中期に起こった応仁の乱(1467〜1477年)で、京都の町は荒れ果ててしまった。

その復興の時に、どういうわけか、1間を6尺5寸とした家が建てられ始めた。

そして、織田信長は、この1間を6尺5寸(197cm)をもとにして、田畑を測量し、年貢を取り立て始めた。

年貢とは、現在でいう税金のようなもので、昔は農民が収穫したお米を領主に納めていた。

織田信長は、田畑を1間区切りで測り、それに応じて年貢の量を決めていた。

そして、その頃、1間6尺5寸の家に合う畳の大きさも決まった。

それが、縦が191cm、横が95cmの畳で、現在の「京間」の畳の大きさとなった。

このように、織田信長が大きく関わって、統一され始めた畳の大きさ。

次に大きく畳の大きさが変わったのが、徳川家康の時代。

徳川家康は、江戸に新しい街をつくるために、さらに多くの年貢が必要になった。

そこで、家康は、1間の長さを信長の時よりも、さらに短い6尺約182cmにした。

実は、1間四方あたりの年貢量は同じ。

つまり、1間の長さが短いほど、より多くの年貢がとれる。

これを分かりやすく、やや大げさに説明すると、

例えば、1間の長さが青色の広さの場合、

この田んぼからは、1間四方が16個分の年貢がとれる。

一方、先ほどよりも1間が短い赤色の広さの場合、同じ広さの田んぼなのに、

今度は、1間四方が25個分の年貢をとることができる。

信長と家康の1間の差は、約15cm。

つまり、家康の方が1.17倍の年貢をとれる。

わずかに思えるかもしれないが、これを全国規模で行うので、年貢量の差は相当なもの。

そして、江戸の街では、この「1間6尺」を基準に家が次々と建てられ始めた。

これに合うように、畳の大きさも決められていった。

その畳のサイズは平均すると、縦が約176cm、横が約88cmで作られ、

今の江戸間のルーツ、つまり、畳1畳の大きさの目安となった。

他にも、実は、京間と江戸間の間をとった中京間という畳もある。

この畳の大きさは、縦が約182cm、横が約91cm と、まさに江戸間と京間の中間。

なぜ、中途半端な大きさなのか?

徳川家康は、愛知県でも東部の岡崎の出身。

織田信長は、愛知県の西部の尾張地方の出身。

現在の名古屋の城下町は、家康がつくるが、もともとは信長の領地。

つまり、両方に忖度して生まれたのが、中京間の大きさということになる。

ちなみに・・・、

現在、新築の戸建てを建てる際は、和室は江戸間の畳を敷くのが一般的。

京間、中京間は指定すれば、選べる場合もある。