畳の一畳は、なぜあの大きさなのか?という話がありました。
これについて、河田克博 先生(名古屋工業大学 名誉教授)が説明していました。
畳一畳の大きさは、縦が約176cm、横が約88cmというざっくりとした目安がある。
一見、大きさが統一されているように見えるが、
実は、地域によって大きさが違う。
例えば、先ほどの大きさの畳(縦が約176cm、横が約88cm)は、
ほぼ全国で使われている「江戸間」と呼ばれている畳。
一方、関西や西日本では、江戸間よりも大きい、縦が191cm、横が95cmの「京間」と呼ばれる畳もある。
同じ8畳でも、江戸間よりも京間の方が広いということになる。
8畳の京間の畳の上に、
8畳の江戸間を敷いてみると、約28cmの隙間ができた。
なぜ、同じ1畳でも、大きさが違うのか?
江戸間と呼ばれている畳は、徳川家康が決めたといわれている。
一方、京間は、織田信長が深く関係している。
現存する最古の畳は、聖武天皇が使用した「御床畳(ごしょうのたたみ)」。
これは、非常に薄っぺらな畳だった。
また、平安時代では2mを超えるサイズの畳もあり、現在の畳とは全く異なる大きさの畳だった。
室町時代に入ってから、少しずつ畳の大きさが統一。
その畳の基準となったのが、1間(いっけん)の長さ。
1間とは、家を支える柱と柱の間の距離。
室町時代の中期に起こった応仁の乱(1467〜1477年)で、京都の町は荒れ果ててしまった。
その復興の時に、どういうわけか、1間を6尺5寸とした家が建てられ始めた。
そして、織田信長は、この1間を6尺5寸(197cm)をもとにして、田畑を測量し、年貢を取り立て始めた。
年貢とは、現在でいう税金のようなもので、昔は農民が収穫したお米を領主に納めていた。
織田信長は、田畑を1間区切りで測り、それに応じて年貢の量を決めていた。
そして、その頃、1間6尺5寸の家に合う畳の大きさも決まった。
それが、縦が191cm、横が95cmの畳で、現在の「京間」の畳の大きさとなった。
このように、織田信長が大きく関わって、統一され始めた畳の大きさ。
次に大きく畳の大きさが変わったのが、徳川家康の時代。
徳川家康は、江戸に新しい街をつくるために、さらに多くの年貢が必要になった。
そこで、家康は、1間の長さを信長の時よりも、さらに短い6尺約182cmにした。
実は、1間四方あたりの年貢量は同じ。
つまり、1間の長さが短いほど、より多くの年貢がとれる。
これを分かりやすく、やや大げさに説明すると、
例えば、1間の長さが青色の広さの場合、
この田んぼからは、1間四方が16個分の年貢がとれる。
一方、先ほどよりも1間が短い赤色の広さの場合、同じ広さの田んぼなのに、
今度は、1間四方が25個分の年貢をとることができる。
信長と家康の1間の差は、約15cm。
つまり、家康の方が1.17倍の年貢をとれる。
わずかに思えるかもしれないが、これを全国規模で行うので、年貢量の差は相当なもの。
そして、江戸の街では、この「1間6尺」を基準に家が次々と建てられ始めた。
これに合うように、畳の大きさも決められていった。
その畳のサイズは平均すると、縦が約176cm、横が約88cmで作られ、
今の江戸間のルーツ、つまり、畳1畳の大きさの目安となった。
他にも、実は、京間と江戸間の間をとった中京間という畳もある。
この畳の大きさは、縦が約182cm、横が約91cm と、まさに江戸間と京間の中間。
なぜ、中途半端な大きさなのか?
徳川家康は、愛知県でも東部の岡崎の出身。
織田信長は、愛知県の西部の尾張地方の出身。
現在の名古屋の城下町は、家康がつくるが、もともとは信長の領地。
つまり、両方に忖度して生まれたのが、中京間の大きさということになる。
ちなみに・・・、
現在、新築の戸建てを建てる際は、和室は江戸間の畳を敷くのが一般的。
京間、中京間は指定すれば、選べる場合もある。