なぜ、七五三は3歳5歳7歳で、お祝いするのか?という話がありました。
これについて、民俗学を研究している 新谷尚紀 先生 (国立歴史民俗博物館 名誉教授)が説明していました。
七五三は、地域によって異なるが、3歳の女の子、5歳の男の子、7歳の女の子、11月15日に神社に参拝する伝統行事。
「七五三」と名付けられたのは、明治時代以降で、もともとは七五三という名前ではなく、
3歳の祝い、5歳の祝い、7歳の祝い、それぞれを祝う別々の儀式。
現在では、神社で参拝し、家族で記念写真を撮影することが多い「七五三」。
もともとは、それぞれどんな儀式だったのか?
歴史的に、まず古いのは平安時代の「3歳の行事」。
3歳になる男の子、女の子に、「髪置き」といって真綿を頭にのせる儀式。
当時の子どもは、3歳になるまで、男の子も女の子も、坊主頭が主流だった。
そのため、平安時代以降、3歳になると、髪の毛をのばし始める儀式として、真綿を頭にのせて、
「白髪になるまで元気で」と長生きを願った。
昔は、生き延びるのが大変だった。
子どものうちに、たくさんの人が亡くなってしまう。
こちらは、明治から昭和初期にかけて、とある墓地に埋葬された死亡者の年齢を新谷先生が調査しまとめたグラフ。
埋葬された151人の中で、半数を超える86人が5歳までに亡くなっており、その多くが1歳未満。
明治、大正、昭和ですら、生まれて、すぐに亡くなる人も多い。
続いて、誕生したのは「7歳の行事」。
平安時代の中期には、3歳とともに、もう一つ7歳を祝う行事があった。
今でも、「帯解き・ひも落とし」という名前で、儀式が残っている。
「帯解き」とは、男の子や女の子が、それまで着ていた、つけひもで縛る乳幼児の着物から、
帯で結ぶ着物に初めて着替える儀式のこと。
帯だと、体の成長に合わせて、サイズを自由に変えられる。
このままスクスクと成長してほしい、という願いを込めて、現在でも行われている。
しかし、なぜ、7歳で子どもを祝ったのか?
江戸時代に作られたと言われる日本のわらべうた「とおりゃんせ」という有名な童謡がある。
実は、この歌に、7歳で祝う意味が隠されている。
これは、7歳のお祝いに神社に参るという歌だが、
神社で祝う前は「神の子」で、神社で祝った後は、「人の子」になるという意味がある。
昔は、7歳になる前の子どもは、病気や事故で、いつ死ぬかわからない。
そういうことから、神様に命運を託された子ども、と考えられていた。
当時は、7歳になるまでは、神様の子であるとされたため、
例えば、お供え物を盗み食いするなど、悪いことをしてもバチが当たらない、と言われていた。
しかし、7歳のお祝いを神社で済ませた後は、もう神様の子ではないから、悪いことをしたらバチが当たる。
そのため、「帰り道は、こわいよね」と、歌って帰る。
つまり、7歳の子を祝ったのは、無事に生き延びて一人前になったから。
では、なぜ5歳もお祝いするようになったのか?
5歳のお祝いは、平安時代の末期から鎌倉時代にかけて、武家の間で広まったと考えられている。
5歳になると、男の子が「はかま着」といって、その文字通り、はかまをはく行事を行った。
鎌倉時代になると、平安時代の貴族による政治が終わり、武士が中心の社会に・・・。
そんな武士にとって最も大切だったのが、跡継ぎの子ども。
大名にとって、子どもが育たなければ、お家断絶。
身分は剥奪され、領地や城も大名は没収される。
家臣は、色を失い露頭に迷う。
だから、世継ぎ(子ども)が成長して、跡継ぎが育つことが、一番大事だった。
しかし、鎌倉時代になっても医療は発達せず、生き延びられない子どもが、たくさんいた。
そのため、5歳まで育った男の子に、はかまをはかせ、跡継ぎに成長するように願った。
こうして、もともとはバラバラな儀式だった(3歳「髪置き」、5歳「はかま着」、7歳「帯解き」)七五三だが、
江戸時代になると、徳川綱吉が3歳になる長男のお祝いを11月15日に盛大にしたことから、
この日に3歳のお祝いが定着したと考えられている。
その後は、江戸商人や町民にも浸透し、11月15日に5歳と7歳もまとめて祝うことになった。
明治時代になると、七五三は、全国へ広まったが、そのキッカケとなったのが、百貨店。
明治時代に呉服店が変化して、百貨店が誕生したが、
子どもの着物が売れる機会が増えるように、七五三を盛り上げた。
この時、百貨店が「七五三」という名前をよく使っていたため、その呼び名が定着した。
戦後になると、3歳の女の子、5歳の男の子、7歳の女の子と、七五三は、一般化された。