なぜ給食で牛乳を飲むのか?:チコちゃんに叱られる!【2024/01/05】

なぜ給食で牛乳を飲むのか?という話がありました。

これについて、子どもの福祉について研究している 岩崎美智子 先生(東京家政大学 児童学部 教授)が説明していました。

給食で牛乳を飲むようになったのは、第31代アメリカ大統領のハーバート・フーバーが心配になったから。

戦後当時、政府が行った栄養調査によると、大人でも1日のカロリー摂取量は、戦前の半分しかない1200カロリー。

「起きているのがやっと」という状態で、国民全員が栄養失調と言われていた。

日本の大都市では、ひとつきに数十人もの命が飢えで失われた。

1945年マッカーサー率いるGHQが日本に上陸。

非軍事化をすすめる中、食料不足の問題は深刻だった。

その翌年(1946年)の5月5日、

国際連合が組織した敗戦国の救済と復興のための機関の代表に選ばれたフーバーが、

日本の食料の状況を視察に来た。

1948年の子どもの体重は、10歳男子で平均26kg。

2024年現在の平均35kgと比べ、かなり痩せている。

子どもたちの姿を目の当たりにしたフーバーは栄養不足を心配し、救わなければならないと考えた。

この時、マッカーサーから、

食料不足をこのまま放っておくと、暴動が起きてしまうのではないかと恐れている

と、アメリカからの食糧支援を強く要望された。

フーバーは、この要望に賛同し、食料の輸入を約束した。

そして、マッカーサーに、学校給食を始めるよう進言した。

フーバーには、第一次世界大戦後、ドイツをはじめ、ヨーロッパで給食を実施し、復興につなげた経験があった。

「日本のこどもたちに健康な体になってほしい」という思いが強かった反面、政治的な思惑もあった。

フーバーは、マッカーサーを自分の意志を引き継ぐ大統領候補として、目をかけ応援していた。

マッカーサー率いるGHQ主導の学校給食が成功すれば、アメリカ国民にアピールでき、

次期大統領選で、マッカーサーが優位になると、フーバーは考えていた。

マッカーサーは、すぐさま、学校給食の実施を決め、その任務をある男に委ねた。

それが、「クロフォード・F・サムス」。

彼は、医師の教育をはじめ、日本の医療福祉や社会保障などの改革を担当していた。

子どもの栄養不足を嘆き、フーバーと同じ思いを抱えていた。

1946年5月、マッカーサーが恐れていたことが起こった。

食糧難突破に起ち上がる民衆。

隠匿された食料がまだたくさんあるとみなされ、配給の組織を正して公平に食わせろと、

各地の民衆はいっせいに立ち上がった。

配給の不十分さに、市民は一斉に怒りを爆発させた。

この状況を見たサムスは、給食実施への思いを更に強くした。

「親は子どもが食べることができれば、自分は空腹に耐えられるだろう。

民衆の不満を鎮めるためにも給食はマストだ」

学校給食は国民の怒りを収めるためでもあったが、サムスには医師としての考えもあった。

「食料不足で一番苦しむのは社会の弱者だ、中でも一生取り返しのつかない深刻な影響を受けるのは育ち盛りの子どもである。」

このまま子どもたちが、まともに食事をとれずにいたら、日本の復興などありえない。

日本のために善意で始める学校給食を日本は喜んで受け入れるに違いない。と協力を要請した。

しかし・・・、

・大人にさえ食料が行き渡っていないのに、子どものために食料を調達するのは無理だ(農林水産省)。
・今の日本では教師が給食の世話をするしかなく、彼らも空腹をこらえ授業と雑用で疲れ果ててる上に、昼休みまで返上しろというのは気の毒だ(文部省)。
・予算がまったくない(大蔵省)

などという意見が出て、交渉は決裂した。

サムスは、学校給食に後ろ向きな日本の官僚たちに、いらだちを覚えながらも、

彼らを説得するため、食料の調達に奔走。

米中心の日本人は炭水化物ばかり摂取し、動物性タンパク質が特に足りていないことを調べていたサムス。

しかし、全国の小学生に行き渡るほどの動物性タンパク質は、日本にはなかった。

悩むサムスの元に、アメリカからある知らせが届く。

アメリカでは、消費できないほどの牛乳が生産された。長く保存ができないので、脱脂粉乳にしたものがたくさん余っている。それなら手に入れられる。

GHQとして、医師として、サムスは、その提案に喜んで飛びついた。

更に、そのころ、アジアの救済を目的とした団体「ララ」からの救援物資にたくさんの脱脂粉乳があることが分かった。

そして、脱脂粉乳を給食のメニューに加えることを決めた。

ようやく日本の官僚たちも納得し、1946年12月に、学校給食の実施が正式に決定した。

この時から、子どもたちは、脱脂粉乳を飲むことができるようになった。

子どもたちの身長は、1年も経たないうちに、飲んでいない子どもより、2cm以上伸び、体重は大幅に増加した。

そして、昭和30年代、徐々に日本の酪農が盛んになり、脱脂粉乳から牛乳に変わり、現在の給食の形となった。