学ランの「ラン」ってなに?という話がありました。
これについて、制服の歴史に詳しい服飾史研究家の辻元よしさんが説明していました。
学ランの原型は、江戸時代にオランダから伝わった軍服。
江戸時代、鎖国をしていた日本が、西洋の国で、正式に貿易をしていたのは、オランダだけだった。
そのため、軍服に限らず、オランダから伝わった西洋式の洋服は、全て「蘭服(らんぷく)」と呼ばれていた。
そして、明治時代になり、オランダから伝わった軍服をモデルにした学生用の蘭服が、帝国大学、今の東京大学で誕生した。
この学生用の蘭服を略して、「学ラン」と呼んだ。
そして、大正時代初期、学ランは全国の学校へ広がった。
ところで、学ランは、なぜ黒色なのか?
学ランの原型になったとされる軍服が登場したのは、17世紀のスウェーデン。
その時の軍服は、黄色で派手だった。
同じ時期のイギリスの軍服は赤。
フランスは明るい青と、派手なものだった。
これだけ目立つ色だと、敵にすぐ見つかり危険に思えるが、
当時、戦場で使われていた砲弾の火薬は煙が多く出るもので、
辺りは煙だらけになってしまっていた。
なので、味方が、どこにいるのか、わからなくなってしまうので、
逆に、目立つ軍服を身につけることが大事だった。
軍服の色を決めるもう一つの理由が「染料」。
軍服は、一度に大量の服を染めるため、
安価で入手しやすい染料の色になることが多かつた。
例えば、イギリスの軍服が赤いのは、
当時、赤色の染料だった「カイガラムシ」という虫が、イギリスでよくとれたから。
18世紀、イギリス海軍が紺の軍服を採用。
その理由は、イギリスがインドを支配したから。
当時、インドでは、紺色のインディゴ染料が手に入りやすかった。
更に、この頃になると、鉄砲の精度も上がり、火薬の煙があまり出なくなっていった。
なので、軍服は、戦場で敵に見つかりにくい、地味な紺色になっていった。
そして、紺色の軍服が黒色に変わるある出来事があった。
それが、18世紀後半から19世紀にかけて、イギリスで起こった産業革命。
それにより、イギリス海軍に、石炭を使う蒸気船が登場。
すると、石炭を扱う兵土たちの軍服は、紺色から、より汚れが目立たない黒へと変わっていった。
その影響は、世界に広がりアメリカ海軍も、紺から黒に変更。
そして、幕末、長崎県のグラバー邸で知られる、イギリス人の商人のトーマス・グラバーが、黒の軍服生地を日本に輸入。
その後、新政府軍の薩摩藩や長州藩も黒い軍服を採用した。
やがて、夏服の白やカーキ色の軍服なども誕生することになる。