なぜ伊豆半島は静岡県で伊豆諸島は東京都なのか?という話がありました。
これについて、伊豆諸島の歴史について10年以上研究している、
榎澤幸広 先生(名古屋学院大学 現代社会学部 准教授)が説明していました。
伊豆諸島が東京都なのは、”島の人たちが東京とのつながりを望んだ”。
東京とのつながりと言っても、こんなに離れていて、
むしろ静岡の方が近いのが分かる。
伊豆諸島は、最北端の伊豆大島から南に約600km。
9つの有人島と多くの無人島、岩礁など、合計116の島々が連なってできている。
そんな島々に住む人たちは、東京とどんなつながりを望んだのか?
伊豆諸島は江戸時代、魚や塩といった島の特産品を年責として納めていた。
もともと幕府の直轄地だったので、東京とのつながりが歴史的にも深かった。
それぞれの島では海水を利用して作る塩や、「八丈絹」で知られる絹などを江戸まで運び、
それを売って、生計を立てていた。
しかし、明治時代になり、1871年の廃藩置県によって伊豆諸島は、相模国西部、伊豆国を管轄するために設置された足柄県の所属になった。
5年後、1876年に足柄県は静岡県になり、伊豆諸島もそのまま静岡県の管轄になった。
それでも、江戸時代からのつながりで、伊豆諸島からの人の行き来は東京ばかり。
一般の船もほとんど東京行きだった。
静岡県の管轄になることで、行政上の手続きは、まず東京に行き、陸路で静岡まで行っていた。
一方、静岡県の職員も、伊豆諸島に公務で行く場合、
陸路で東京に行き、そこから船で島まで行くという手間がかかっていた。
そんな状況を知り、地域行政を指揮していた大久保利通は、静岡県や伊豆諸島の人たちが、
不便のない生活ができるように、大政大臣の三条実美に上申書を送る。
「行政事務を円滑に遂行するためにも、また交通の利便性から見ても、
東京への移管は静岡と島民の双方にメリットがある」
この状況を理解した政府は、伊豆諸島が静岡県になってわずか2年後の1878年、東京府の管轄にした。