天下分け目の大勝負「関ヶ原の戦い」。
その後、戦国時代は終焉を迎え、日本の歴史を変えた戦いです。
1分でわかる関が原の戦い
時は慶長3年、戦国の世。
当時、天下を治めていた豊臣秀吉が亡くなり、世の中は大混乱。
このタイミングを逃すまいと立ち上がったのが、徳川家康。
家康は秀吉の遺言を守らずに、いろんな大名と婚姻関係を結んだり、やりたい放題しはじめた。
これに怒ったのが、生前から秀吉をリスペクトしていた石田三成。
そして、慶長5年9月15日、関が原に両軍が集結。
西の石田、東の徳川、兵の数はほぼ互角。
合戦前の勢力図
西:約8万 VS 東:約9万
決着には1年はかかるのではないかと長期戦が予想されましたが、
実際は、たった6時間で、徳川家の圧勝に終わりました。
その理由は、西側だった勢力の「大きな裏切り」。
合戦直後の勢力図
西:約3.5万 VS 東:約10万
合戦前と合戦直後の勢力図を見ると兵力差は歴然。
西軍の武将、小早川秀秋が東軍に寝返り、その後、西軍の武将の寝返りが相次いだ。
この逆転減少を仕掛けたのが徳川家康。
多くの兵を寝返らせるために、戦いまでの1か月で、諸大名に122通の手紙を書きまくり、寝返るように裏工作をしていた。
石高(=米の量)で力関係が計られていた時代。
その石高の数が国内随一だった家康からの手紙の内容は、
「石高を増やしてあげるから味方して!」
というもの。
実際に、伊達政宗に宛てた手紙には、「勝利の暁には7つの領地を与える」とあり、それは、石高に換算すると50万石相当。
その手紙に伊達政宗も心揺さぶられたという。
家康は、逆に、諸大名に裏切りをさせないために、自分のことはたなにあげ、「一度仕えた主君を裏切ってはいけない」という「武士道」の精神を広めた。