戦う前から勝敗は決まっていた!?関ヶ原の戦いは6時間で決着がついたという話:リトルトーキョーライフ【2018/04/12】

天下分け目の大勝負「関ヶ原の戦い」。

その後、戦国時代は終焉を迎え、日本の歴史を変えた戦いです。

1分でわかる関が原の戦い

時は慶長3年、戦国の世。

当時、天下を治めていた豊臣秀吉が亡くなり、世の中は大混乱。

このタイミングを逃すまいと立ち上がったのが、徳川家康

家康は秀吉の遺言を守らずに、いろんな大名と婚姻関係を結んだり、やりたい放題しはじめた。

これに怒ったのが、生前から秀吉をリスペクトしていた石田三成

そして、慶長5年9月15日、関が原に両軍が集結。

西の石田、東の徳川、兵の数はほぼ互角。

合戦前の勢力図
西:約8万 VS 東:約9万

決着には1年はかかるのではないかと長期戦が予想されましたが、

実際は、たった6時間で、徳川家の圧勝に終わりました。

その理由は、西側だった勢力の「大きな裏切り」。

合戦直後の勢力図
西:約3.5万 VS 東:約10万

合戦前と合戦直後の勢力図を見ると兵力差は歴然。

西軍の武将、小早川秀秋が東軍に寝返り、その後、西軍の武将の寝返りが相次いだ。

この逆転減少を仕掛けたのが徳川家康。

多くの兵を寝返らせるために、戦いまでの1か月で、諸大名に122通の手紙を書きまくり、寝返るように裏工作をしていた。

石高(=米の量)で力関係が計られていた時代。

その石高の数が国内随一だった家康からの手紙の内容は、

「石高を増やしてあげるから味方して!」

というもの。

実際に、伊達政宗に宛てた手紙には、「勝利の暁には7つの領地を与える」とあり、それは、石高に換算すると50万石相当。

その手紙に伊達政宗も心揺さぶられたという。

家康は、逆に、諸大名に裏切りをさせないために、自分のことはたなにあげ、「一度仕えた主君を裏切ってはいけない」という「武士道」の精神を広めた。