なぜ、路線バスにボタンが付いたのか?という話がありました。
これについて、谷内正往 先生(大阪商業大学 総合経営学部 教授)が説明していました。
かつて、路線バスには、運転手さんと車掌さんが乗っていて、扉の開閉、切符販売、降りる客の確認などは、車掌の仕事だった。
明治36年(1903年)、広島、京都で、日本初の乗合バスが誕生。
しかし、ライバルの乗合馬車からの妨害や車両故障も多く、本格的な運行はまだまだだった。
大正時代になると、自動車の信頼性も上がり、数人乗りの乗合バスが増えていく。
そして、大正8年には、東京市(現・東京23区)で、東京市街自動車が営業を開始。
ここで、少年車掌と呼ばれる男子の車掌がバスに同乗。
しかし、不思議な現象が起こった。
バスの評判は上々で、徐々に客足は増えているのに、一向に売り上げが伸びない。
実は、車掌が運賃の一部をちょろまかしていた。
乗車後に身体検査をしたら、帽子や靴下にお金を隠していた。
そこで、目を向けられたのが、職業婦人と呼ばれた働く女性。
大正時代、デパートガールやウェートレスといった新たに生まれた職業に就く女性が増え、彼女たちは「職業婦人」と呼ばれた。
当時、社会進出した女性は、真面目に働く印象が強かった。
そこで、女性に任せてみようと、女性車掌を募集すると、多くの募集が来た。
こうして、大正9年(1920年)、女性車掌37名が誕生。
当時珍しかった洋装の制服で登場すると、瞬く間に大人気に。
襟が白かったことから「白襟嬢」と呼ばれ、彼女たちが乗っているバスをより好みする乗客もいたという。
実際、女性の車掌にしたことで、料金のちょろまかしが減った。
さらに、お客も増えてバス会社は大成功。
「バスの車掌は、女性の花形職業」ということが定着した。
その後、戦後の復興とともに、人の流れが増えると、バスの需要が高まる。
利用者が増えると、バスの増便や運行時間延長の要望などが増えてきた。
そこで、ある問題が生まれた。
それが、「労働基準法」。
昭和22年に施行された労働基準法では、一部の業種を除いて女性を夜10時から翌朝5時まで働かせることを禁止していた。
夜間、運行するバスに、女性の車掌が乗車できなかった。
そこで、考えられたのが、「ワンマンバス」。
運転手1人しか乗らないワンマンバスにするとなると、車掌の仕事は全て運転手に引き継がれる。
もともとは、ドア横にいた車掌がドアの開閉を行っていたが、運転席にドアの開閉スイッチが付いた。
続いて、料金の徴収。これは、運転席横に料金箱を設置することで、運転手ができるようになった。
もう一つ車掌の大事な仕事は降車客の確認。
客は降りる意思を挙手や声で車掌に伝えていた。
しかし、これは車掌がいないと運転中の運転手には確認できない。
また、走行中の運転手に話しかけるのは、運転の妨げになって危ないので、原則禁止されていた。
そこで、誕生したのが「降車ボタン」。
こうして、昭和26年(1951年)、大阪市営バスで、車掌なしでも運行できるワンマンバスが誕生。
合理化できたことで、人員削減が始まり、女性の花形職業の一つだったバスの車掌という仕事が徐々に姿を消すことになった。
女性車掌の代わりに生まれた降車ボタン。
当初は、ボタンを押すとブザーが鳴り、運転席のランプが光って知らせていた。
昭和30年代になると、ボタン自体が光って、次のバス停にとまることを知らせるタイプが登場した。